自著の言い訳④

自著の言い訳

新しい提言ではなく、自著の言い訳③が長いので分割して載せようと思う。

4 仮説(1)-物質について-

(1)生物の定義について

本題に入る前に、生物学における生命の定義に触れておきたい。生命の定義と言っても様々な論議があるので、生物学における生命の一般的な位置付けについて書いてみる。

①自己を維持する機能を持つ。
②遺伝能力によって自己を増殖させることができる。
③進化する。(全ての生命は進化する過程である。)

生物学では、これらの能力を持つものを普通、生物(生きもの)と言い、これらの能力を持たない物は、生物とは言わない。

(2)選択について

さて、3節でも書いたように、電子は、原子の広大な領域の中をどのように動いているのか、厳密にはよくわかっていない。とにかく、原子という形の中で、原子核と電子が存在していることだけが確実なようである。では、原子核と電子はどうやって共存するようになったのだろう。
仮に、まず原子核が存在し電子が加わったとする。原子核が電子を引き寄せたのだろうか。それとも、電子が原子核の近く存在することを選んだのだろうか。
このことに限らず、全ての事例について同じことが言えるが、一つの物体が、もう一つの物体と接触したり結合したりするのは、二者を択一するという選択の結果である。この世の中には、幾種類もの選択肢があるように思えるが、ある物体がある物体(ある状態)を選択する方法は、二つしかない。対象とする相手や状況と、接触(結合)するか、しないかである。中間は無い。迷っている状態は、選択しない方へ分類されるからである。
これを数字で表すとするなら、相手を選択することは、すなわち<1>であり、相手を選択しないことは、<0>となる。だから二者といっても、一者は<1>であり、もう一者<0(無)>なので、一者択一と言うべきかもしれない。この<1>と<0>が重要な意味を持つことになる。

(3)<1>の意味と<0>の意味について

ある物体がある物体を選択を選択する方法は、二つしかない。一つは、<1>を選択することで、もう一つは、<0>を選択することである。
<1>を選択することはどういうことかと考えると、そこには、必ず自分(物体、物質)にとって喜びの多い状態がある。例えば、嬉しいとか楽しい、おいしい、快い、高揚する、落ち着く、安らぐ、過ごしやすい、平和である、安心感がある、嗜好が合うなどである。
それに対して<0>を選択する場合、それは、選択しないということであるが、なぜ選択しないのかを考えると、そこには、不安があり、不快があり、苦痛や嫌悪、不信感、わだかまり、迷いなどがともなうからである。
だからもし、ある選択に、<1>の要素以上に多く<0>の要素が含まれているとしたら、その状態はいずれ壊れることになる。

(4)知能について

ところで、知能というと、ある程度進化(成長)した高等な生物が持つものだと私たちは考える。しかし仮に、<1>か<0>を選択することができる能力を、原始の知能を所有することだと仮定する。<1>とは(3)で書いたように、自分にとって有益なことや状態である。
現代科学で究極物質は、素粒子であるとか、クォークであるとか言われているが、それが素であるかどうかはわかっていない。
根源的な原始の究極物質があるとするなら、それの持つ原始の知能が、<1>か<0>を選択するだけという、最も単純なしくみをを持っていると仮定する。それを仮に原始物質としよう。
原始物質は、一つの事に対する<1>選択能力(<1>を選択する能力)しか持たないが、種類については、かなりの数を有していても構わない。なぜ、そんな単純なものに種類などが有り得るかということについては、完璧な球が作り出せないのと同じで、傷があったり偏りがあったり、全く同一の物質が存在することの方が難しいと考えることによる。

(5)原始物質の成長について

原始物質が、最初の<1>選択能力を行使したとする。すると、原始物質同士が接触(結合)した状態になり、ここで知能は一段階複雑になると仮定する。私たちの脳が、神経細胞などによる信号の連鎖反応で思考すると考えるように(脳の思考の仕組みはよくわかっていないが、蛋白質が情報伝達に関係があるとされ研究されている。)、ここでも、互いの知能をもとに、少し複雑な選択ができるものとする。これを繰り返して原子核ができたとしよう。

(6)原始、分子について

原子の中で、原子核と電子が遠く離れているにもかかわらず、共存していることについてどう考えたらいいのだろう。
電子は最も基本的な粒子だと言われているが、何段階かの選択を経てつくられた結合物体であると考える。そうだとしたら、ただ一つの状態を選択するだけという単純な知能ではなくて、複雑な選択能力を有する知能を持っていることになる。
原子核について言えば、電子の約二千倍(直径比)というのだから、単純に比較すると、電子の二千倍発達した選択能力を持つ知能と化している。その知能同士の選択が原子という形(状態)となって存在する。
同じように、水素ガスなど、電子を共有する状態を分子と言うが、これも広大な範囲の中でちっぽけな二つの電子の存在をどう考えたらいいのだろう。
この際、電子という子供の知能を持った存在よりも、原子核という電子の二千倍の知能を持った物質の方に注目すべきだ。ある環境の中で、原子核同士が結合したかったのだ。電子も含めて、最も安定的な方法で存在しようとしたのである。
原子核同士はとても離れているわけだが、そこには知能の交換があり、次の選択に備えている。また、離れているからこそ、他の強い知能によって流動的な結果となる。

(7)二進法について

あまり唐突な仮定の話を重ねてもわかりにくいので、ここで、先ほどの<1>と<0>の話に戻ろう。
電子計算機の計算は、二進法によって行われる。二進法は、1と0だけを使う。二種類の信号を使うだけで、十進法のどんな大きな数も表現できる。つまり二進法は、全ての数の基本となる表現方法である。
私たちは、1、2、3、4、5、6、7、8、9、0、を使う十進法の生活に慣れている。だがこれは、私たち人間が生活を便利にするために工夫した知恵だ。宇宙に最初から備わっていたものではない。やさしい方程式も、難しい方程式も人間が後から考え出したものなのである。
日常に存在するあらゆるものには名前があり、全く異質の物体であるように見える。けれど私たちは、それらが、限られた数の原子からできているということをよく知っている。結合している原子の種類が違うか、結合している原子の数に違いがあるだけなのである。
だから、もしやろうと思えば、原子の種類と数だけで物体を表現することが可能なわけである。しかしそうしないのは、わかりにくいし覚えにくいしあまりにも不便だからである。 例えば、木は、101000000010100000010000000000101010番であるとか、紙は101010100000000000101010101000011010番であるというように。もしかしたら虫などは、100000000000000000001番と100000000000000000010番の違いを感じて、ものを区別しているのかもしれない。
しかし私たちは、数えられないほどのものの中に暮らし、人間の思考上、こんな覚えにくい方法で識別しようという不合理を選ばなかったのである。人間の持つそれぞれの機能は、<1>と<0>の違いを選別しているのかもしれないが。

(8)物質の<1>選択能力の可能性について

日常生活の中では一般的に、生物学で生物とされるもの以外は、力を加えない限り、外見上は動いたり変化するというようなことは起こらない。けれども、超微視的世界と超巨視的な世界では、何も力を加えていないのに、その物質(物体)に変化や運動が起きること、起こっていることをよく確認する。例えば、何度も例を取り上げた、

①中性子の自然崩壊がある。
中性子は単独で存在することはないので、そこまでは人工的な力を加えることになるが、十数分経過した後は、自らの力で変化する。(この力を物理学では<弱い力>と言う。)中性子は、陽子と電子と反電子ニュートリノに分かれる。
陽子と電子と反電子ニュートリノが、それまで<1>選択を行い中性子を形づくっていたのだとしたら、原子核内の陽子と離されたために選択能力に変化が生じ、他の二つの粒子に対して<1>選択を行うのをやめ(<0>選択)、三つの粒子に分かれたことになる。
陽子と電子と反電子ニュートリノが、同じ原子核内の陽子の知能の助けを借りて、中性子を形づくっていたのだとしても、明らかにそこには、個々の粒子の自己選択知能が存在する。

②時計の精密な測定方法として、セシウム原子時計がある。
セシウム原子時計は、原子内部の遷移現象が利用される。セシウム原子(123Cs)の、基底状態の電子の遷移に対応する周波数(電磁波)の継続時間を、一秒としている。
電子は、ある基本的な状態(基底状態、定常状態)から、別の状態へ飛び移ることがある。その時に電磁波を放出する。遷移は、電子の光(光子)の吸収と放出に関係があるが、基底状態とは、新たにエネルギー(光)を加えない状態なので、この遷移は、セシウム原子内の電子自身の選択行動と考えることができるだろう。ここでも電子、あるいは原子核自らの選択知能が働いている。

③電荷のつくる電場や磁場がある。
一つのプラスの電荷と一つのマイナスの電荷を考える。それらの電荷は、自らの作用である決まった方向に電場をつくる。
電場と磁場は、マクスウェルによって統一されている。磁石がつくる場を磁場と言うが、これもある決まった方向に磁場をつくる。わかりやすく磁石を例にとると、S極、N極に分かれていて、一般の生活の中でも人工的な力を加えないで、自然に力が波及しているという認識がある。これらは、他からの力ではなく、自らの力で電磁場をつくって力を及ばしているのである。

④超巨視的な世界では、恒星と惑星がある。
太陽系、銀河系などの恒星(太陽)と惑星(太陽の周りを回る星)は、そこに重力(引力)が働いていると言われているけれども、自分たちの力だけで動いている。
太陽で言うと、太陽の知能が重力(引力)であると考えることもできる。惑星の運動は、その巨大な知能に支配されている。そういう意味では、太陽は原子核であり、水星、金星、地球などは、電子である。ただ電子に比べれば、地球ははるかに大きいので、運動の仕方は同じにはならないのである。

⑤太陽は、水素ガスでできているが、自らの力(個々の原子の選択による核融合)によって燃え続けている。

これらの自然現象は一部であるが、これらの現象を物質(物体)自身の持つ知能の選択能力だと考えることも可能である。
今まで、物質や物体の力や運動は、物体(物質)とは別の存在として分けて考えられてきたが、それらが別々のものでなく、物質自身の持つ選択知能の蓄積がかたちとなって表れるものだとすると、全ての謎は明白なる。

(9)世の中を支配する法則について

今まで述べてきたように、この世の中は、とても簡単なひとつの法則で成り立っていると考えることができる。そこには、難しい数学や方程式は、全く必要ない。
それは、物質の<1>選択の法則である。いや、<1>選択能力を持つ物質によって成り立っていると言った方が正しいかもしれない。
そもそも宇宙に存在する数とは、<1>しかないのである。物質が、<1>選択を重ねたあげく、私たち人類に至ったのである。また、今ある宇宙の姿に至ったのである。
存在することが、すなわち<1>であり、さらに<1>を選択することは、物質が『良く生きようとする行為』である。物質には最初から、良く生きようとする性質が備わっているのである。
<1>選択能力、これはつまり、原始物質の脳である。そして、脳を持つ原始物質は、すでに生命体なのである。生命とは、物質が、<1>を選択する行動のことである。そして、力とはまさしく、物質自身が持つ知能が選択し、行動を起こした状態そのものである。
私たちは長い間、物質と生物を分けて考えてきたけれども、本来は境目の無い同じ種類のものだったのである。全ての物質は、選ぶという立派な自分の意志を持ち、相手と接触(結合)するという行動を起こすことができるのである。だから、どんな原始的な物質や生物であっても、全てのものが、たくましく生きようとする本能を持つのである。
人類や科学が、永遠の謎として探し求めてきた『真理』に対する答えは、とても単純なものだった。これこそ、素粒子物理学の追究している「統一理論」が最終的に至るはずの、世の中を支配する法則である。

ここで(6)の続きに戻るけれども、原始物質が脳を持つということで、電子や原子核に至っては、高度な脳を持つ生命体だと言っても言い過ぎではないかもしれない。原子内の電子は、広大な原子という領域で、自己の寿命を全うしているのだ。電子は、原子核の許す範囲で自分の好きなところへ行き、内外の環境の変化に応じて、随時、その行動を選択する(変える)。

素粒子の行動を通して、あらためて「量子論」「量子力学」という理論を思い返してみると、これらの理論は実用的手段にとどまるものではない、ということになるかもしれない。量子力学の目的通り、素粒子の状態や在り方を正確に表していると言えるかもしれないのである。
物理学は、『真理』への道から遠く外れていたわけではなかった。これで、3節で取り上げた電子などの素粒子の奇妙な在り方も双方から説明できる。

(10)人間の存在理由について

私たちはずっと、人間の存在理由に対する答えを探し求めてきた。その答えが、この原始物質の持つ性質の中にある。
この世の中に存在する全てのものは、自分にとって良い状態を追い求めていく生命体なのである。
人間は、進化した生命体の一つの形なのである。つまり、『人間は、自分にとって良い人生を送るために、この世の中に存在する』のである。自分にとって良い人生とは、喜びの多い状態であり、私たち生命体には、それを実現していく本能(性質)が最初から備わっているのである。
しかしながら、満足できる人生を送っている人が、一握りでしかないのは、人間の思考が中途半端に複雑なこと、それゆえ社会が複雑なこと、そのことに対する個々の認識が少ないこと、その目的を達成するために人間社会が動いていないことなどがあげられる。

 

5 仮説(2)-生物進化について-

(1)現在の進化論について

生物進化論の最初は、紀元前のエンペドクレスやアリストテレスの著作の中に見られる。しかし、科学的な立場で進化を考えるようになったのは、ビュッフォン、エラスムス・ダーウィン(チャールズ・ダーウィンの祖父)で、17世紀の後半になってからである。19世紀に入って、ラマルクが「動物哲学」(1809年)を発表した。
事実をもとに進化を証明し、進化学説を確立したのは、チャールズ・ダーウィンである。彼の「種の起源」(1859年)は有名である。
20世紀になって、ダーウィンの進化論である自然淘汰(自然選択)説に、遺伝子による突然変異という考えが加わり、ネオ・ダーウィニズムと呼ばれるようになった。ネオ・ダーウィニズムは、小さな突然変異の積み重ねと自然淘汰の繰り返しによって、生物は進化していくとしている。
この他にも、化学進化という考えがある。化学進化では、無機分子から有機分子、さらに高分子へと進化していくことである。高分子が細胞をつくるまでを生化学進化、それ以後を生物進化と呼んでいる。
現代科学では、遺伝や突然変異の原因(進化の原因)は、遺伝子にあるとして、遺伝物質であるDNA(デオキシリボ核酸)の研究がさかんに行われている。

(2)私の考える進化説について

生物学において生物進化というと、始まりは、約40億年前の先カンブリア時代の原始生物あたりからである。それ以前の進化は、化学進化として生物進化とは分けて考えられている。化学進化の段階では、生命の進化とは考えられていない。
現在の進化論と私の考えの決定的な違いはここにある。生命体としての生命の位置付けである。現代生物学における生命とは、生物(生きもの)としての存在に特有のもので<生物を躍動させる原動力>というような概念である。そして、生物の死とは、<生物を躍動させる原動力が、消失すること>である。
では、生物を躍動させる原動力とはどういうものなのだろうか。物体とは別に存在する、魂と呼ばれるような目に見えない存在なのだろうか。もし、それが生命だとしたら、いつ、誰が、どのようにしてそれを与えるのか。神話や宗教では、それは神であると言っているけれども、では、神とは一体どのような存在なのか。どこに存在しているのか。
神の存在については、否定することも肯定することもできないが・・・。なぜなら、宇宙の存在の目的がわからないからである。なぜ、どうやって宇宙は誕生したのか。宇宙も私たちと同じように、自分にとって有益な状態をつくり出すために存在するのだとしても、なぜそうするために存在するのか。存在するということは、どうやって始まったのか。どうやって“0”から“1”になったのか、わからないからである。神の存在に対する是非は、宇宙の誕生と存在の目的の謎が解けるまでお預けである。
神の存在の成否が解けなくても、私たちは、ここにこうして存在しているようである。たとえ実体が、十万分の一(直径比)であろうと。そして確かに、生命と呼ばれるような何かが私たちを動かしているようである。では、生命とは何なのだろうか。
私たちの存在には、つじつまの合う意味がある。4節でも書いたように、物質には初めから知能があり意志がある。物質を動かす原動力とは、最初から物質自身に備わっている選択行動能力のことである。そしてこれが、物質の生命、生物の生命と呼ばれるものの正体なのである。
一つ一つの物質の生命の集積が、人間なら人間という生物を活動させる原動力をつくりあげている。心臓や脳を代表とする生命機関は、ミクロの物質の集積である。それらが<1>を選択するのである。
私たちは、物体に生命を与えることができないと言われているが、物体はもとから生命を持っているのであって、ある物質から動物を精密につくったとしても動かないのは、微妙な組み合わせが違っているからである。原子、あるいはそれ以下のレベルから細かい組み合わせを全く同じにしない限り、つくった動物(ロボット、人形など)を無動力で、動物のように(動物と同じように考えたり、行動する)動かすことは、不可能なのである。
繰り返しになるが、私は、物質も生命を持つ生命体であると考える。全ての物質、物体の素となる原始物質が存在し、その原始物質が、すでに<1>選択能力を持つ生命体であると考える。そして、この世の中に存在する全ての形あるものは、<1>選択能力を持つ物質が、選択したことによって進化(成長)した姿なのだと考えるのである。
だから、物質、化学進化、生物進化を分けて考えない。物質自身と物質からできている全て、太陽、地球、水、岩、空気・・・・・・それぞれが生命体であり、進化の段階における一過程であると考える。

(3)選択の幅について

4節の(4)で、原始物質について、知能としての<1>選択能力しか持たないが、種類については数多く存在するのではないかと書いた。
多くの種類が存在する場合、必ず優劣が存在するというようなことはないだろうか。例えば、素早く選択能力を発揮できる物質と、その能力がなかなか使いこなせない物質である。
岩石などが、長い間、同じ形態を保つということは、環境にもよるけれども、そういう反応の遅い物質が集まっているからではないだろうか。逆に動物や動物の脳を考えると、敏感で反応の早い物質が集まっているとは考えられないだろうか。
元素の周期表には原子番号が付けてある。原子番号の小さいものほど、<1>選択能力において反応の早い(知能の高い)物質で構成され、原子番号の大きいものほど、反応の遅い(知能の低い)物質で構成されていると仮定する。
すると単純な例だが、H、C、O、Na、K、Ca、など原子番号の小さい原子は、動物の体内に存在するが、原子番号の大きいものは存在しない。.

原子核は、陽子と中性子でできている。それぞれの原子の性質は、原子核の中の陽子と中性子の数で決まる。同じ顔をしている陽子と中性子なのに、原子核の中で、なぜ陽子と中性子が二つしか結びつかない原子(H)と、30個も40個も結びつく原子(Caなど)が存在するのだろうか。
特徴(性質)というのは、それを示す範囲によって決定される。例えば、色、味、硬さ、などである。色などは、光の波長の約570~610nm(ナノメートル)までが黄色、約650~710nmまでが赤色というふうになっているが、その境界線は絶対的な数値ではない。見る側の視覚能力にも関係がある。
物質が<1>選択をする場合、30%、50%の性質を持つ相手を選択することは、もはや<1>選択ではない。<1>に限りなく近いものを<1>だと思って選択することが、<1>選択である。原始物質は、完全に同一の物質でない可能性が高いので、必ずしも選択条件の100%を充たすものばかりではない。そして、選択する側の能力にも関係がある。<1>の条件を100%充たす物質を選択するつもりでも、99.99%という僅差ならその違いがわからず選択してしまうかもしれない。そうだとすると、100%の選択を続けてきた物質と、途中で99.99%の選択をしてしまった物質とでは、同じ性質を示すにもかかわらず、微妙な違いを内包しているということになる。それが物質の持つ知能、あるいは能力の差となって表れると考えると、同じ性質を示す同じに見える物質でも、誤差の少ないものほど知能が高く、誤差の大きいものはその逆であると言えるのではないだろうか。
陽子、中性子の段階で知能に差があるとするなら、原子核の形成の仕方に違いが生じることも説明できる。
外から力を加えて原子をつくる場合は、第三者の知能が加わるのでそういう場合は除いて、陽子、中性子自身が原子をつくる場合、誤差が少ないものほど(純度が高いものほど)原子番号の小さいものをつくり、誤差が大きくなってくると原子番号の大きいものをつくる。つまり、純度が低い物質は、何か足りないものがあるので、それを補おうとして、数多くの陽子、中性子が集まるのではないだろうか。
中性子の崩壊についても同じことが言える。原子核の中で始めから陽子として存在する陽子Aと中性子の中に存在する陽子Bは、示す特徴は同じであるけれども、内部構成に違いがあるのではないだろうか。陽子Aは100%に近い選択を繰り返した純度の高い物質でできているが、陽子Bは途中で99%の選択をし、純度が低い。だから陽子Bは、何かを補おうとして電子と反電子ニュートリノを引き付けて中性子となり、それでもまだ補いきれない不足分があるので、それを陽子Aに求めて接触した。
宇宙において水素(H)は、その80%以上を占め、地球にも大量の水素が化合物の形で存在する。水素原子は、1個の陽子と1個の中性子と1個の電子だけからできている。今まで述べたことが正しいとするなら、水素原子の中の陽子は、100%に近い物質からできており、完璧に近く、他の原子の中でも水素原子は、最も知能が高い物質であると考えることができるのではないだろうか。
そして、その80%という宇宙に占める元素の数字から、<1>物質の知能段階の分布状況を知ることもできるかもしれない。

(4)自然淘汰と突然変異について

進化は、自然淘汰(自然選択)と突然変異の積み重ねによって起こるとされている。自然選択は、物質が常に行っている<1>選択として置き換えることもできる。ある環境のもとで<1>選択をしないもの、できないものはそこで成長(進化)が止まる、あるいは遅れる。その結果、淘汰されるというかたちになる。
また、突然変異を考えてみる。突然変異とは、ある日、突然変化するということである。小さな変化の積み重ねといっても、その小さな変化は、ある日突然やってくるという意味なのではないだろうか。
では、なぜある環境において、自然選択をするもの、しないもの、突然変異するもの、しないものといったような違いが起きるのか。
それらは、(3)で述べたように、構成要素の違いによって起こると考えることができるのではないだろうか。
もし、物質の持つ性質の中に幅がなく、全く固定的な性質しかないとしたら(同じ性質を示すものは、全く同一の物質だとしたら)、それが、いくつ組み合わせられて複雑な形の生物となったとしても、その一部が、ある日突然変化するというのはとても理解しにくい。私は、変化する要素は、初めから含まれていたのではないかと考える。
先ほども述べたように、100%の<1>選択を続けてきた物質と、99%のつもり<1>選択を途中でした物質とでは、見た目や示す性質は同じでも、構成内容は微妙に違うのである。その違う部分が、ある状況(環境)の中で選択の違いを示すのではないだろうか。
人間に近い動物として、猿、チンパンジー、ゴリラ、オランウータンなどがいる。これから先、彼らがどんなに進化したとしても、猿は猿としての進化、チンパンジーはチンパンジー、ゴリラはゴリラ、オランウータンはオランウータンと、彼らは進化してもけっして人間には成り得ないだろう。もし、彼らが言葉をしゃべるようになったとしてもである。
遺伝子が違うから当たり前だと言われてしまうかもしれないが、では遺伝子は、ある方向に向かって進化しないのだろうか。なぜ、こんなにも似て非なる違いを示すことになったのか。
<1>選択を続けるある時点において、99~100%を充たす物質を選択し続けたものが人間になったとして、ある時点で98%の選択をしてしまった物質を含むものが、猿になったとすれば納得できる。
遺伝子の中に存在する分子は、同じもののように見えるけれども、分子を構成する物質は、微妙に違う知能を持ち合わせている場合がある。それゆえ、完璧な選択ができなかったり、<0>選択をする結果となる物質があったりする。
こうしてみると、人間の知能が他の生物に比べて高いことも頷ける。

(5)輪廻転生について

仏教には輪廻転生という考え方がある。生死を繰り返して生まれ変わり、現世に生き続けるということらしい。
地球上では生物が死ぬと、分子レベルまで分解する。他の生物の中で消化されたり、気体になったり、土や水に混じったりする。生物は、呼吸したり食物を食べたりするので、分解された分子が体内に入る可能性を持っている。どれが今まで、犬の分子だったか、どれが花の分子だったのか、全く区別が付かない。でも、それらは、私たちの体内を通り過ぎたり、とどまったりしている。どうして犬人間や花人間とはならないのだろう。もちろん、遺伝子が違うし、遺伝子が成長の基準になっているからだ。では、人間の体内でできた卵子、精子の中の遺伝子を構成する分子は、昔、犬だったのだろうか、それとも、花だったのだろうか。
生物は自分に必要な栄養素のみを体内に残し、不必要な部分は体外へ出してしまう。食物を食べた時から排出するまで、体内では<1>選択を繰り返す。先ほどからの仮説でいくと、人間は、100%に近い物質群で構成された優秀な知能を持つ物質でできている。それらは優秀なので、他者選択能力にも長けていて、外から入ってきた物質に対しても100%に近い物質でできた物質を選択し(体内に残し)、身体を成長させる。
ある時点で97%の選択をした物質を持つ物体が犬になったとすると、人間を構成する物質は選択能力が高いので、97%の物質を持った物質は排出してしまう(選択しない)のである。だから、犬は犬と成るべく物質によって、人間は人間となるべき物質によって、存在し進化していくのではないだろうか。
しかし、人間の中に、犬を構成した物質が全く含まれないか、否かについてはわからない。物質の芯にあたる部分(例えば遺伝子)に知能の高い物質があったとしても、それを囲む物質が増えれば、段々に知能が低くなる可能性はあるかもしれないからだ。

(6)物質はなぜ成長(巨大化)し続けないのか

光子も電子も原子も、選択を続けるという性質を持っているはずなのに、なぜ進化したり、巨大化するというようなことが起こらないのだろう。
それは、温度に関係があると考えるのがわかりやすい。温度は、物質の選択能力に関係がある。このことは、物理学や化学、生物学では常識であるけれども。
現代物理学では、電子などの粒子は、超高温状態のなかで形成されたとしている。つまり、今の温度環境が、電子などの粒子の在り方を固定化させている。
では、温度とはどういう原因によってつくられたのか。温度も、現代物理学で言う生命のように物質とは別に存在するものなのだろうか。
原子は分子として結合する時、熱を放出する。分子として結合する前の原子の持つエネルギーと結合後のエネルギーを比べると、後者の持つエネルギーの方が小さい。結合によってエネルギーを失うからだ。それが、光子であり熱エネルギーだとすると、エネルギーとしての温度は、原子が初めから持っていたものであるということになる。
原子は、陽子と中性子の結合体である原子核と電子でできている。陽子、中性子は、クォークなどの素粒子の結合体であると考えられている。素粒子ももっと小さな物質からできていると考えられる。
結合する前の物質を追求していって、原子物質にたどりついたとすると、現在の宇宙の状態に至るまでに、結合するたびにエネルギーが放出され続けたことになるので、原始物質が、途方もなく高温な状態で存在したのではないか、と想像することもできる。温度がエネルギーだとするなら、高エネルギーを持つ原始物質は、凄いスピードで移動し衝突し、他の物質と結合するたびにエネルギー(光子)を放出した。
すなわち物質は、選択能力を行う脳だけでなく、体温も持つ、まさしく生命体であるということができる。そして体温は、光子の出入りによって変化する。
ただ、この考えで少し苦しいのは、小さい原始物質の中に多量の光子が凝縮されていたことになるのだが、その状態を想像するのがちょっと難しいことである。

(7)ダーウィンの進化論について

19世紀にダーウィンがまとめた進化論「自然淘汰(自然選択)の法則」は、21世紀を迎えようとする現代でも根強く支持されている。能力や機能が足りない(獲得できない)存在は自然に淘汰され、適応能力の高い存在だけが生き残る適者生存の原則である。
この考えは、物理学の法則と同じように、今の人間社会に深く影響を与え、人間の価値を決めている。この法則によると、人生に不幸を感じる人間に救いは無いのである。運悪く能力や機能を持ち得ない存在、獲得できない存在は、諦めるしかないのである。
それに対して適者はいい。自分は選ばれた有能な存在だと誇りを持つことができる。適者は、この法則に深い感慨を持つことはあっても、疑問を抱く人は少ないだろう。そして適者が、この考え(自由競争の原理)のもとに世の中を誘導していく。非適者はそのまま諦めるか、非適者なりの生きる道を探るしかない。
ダーウィンが、そんなことまで考えたかどうか知らないが、そうなのである。少なくとも私はそう考えていた時期がある。学校で学んだダーウィンの進化論の知識を持ち合わせていたからだと思う。この適者生存の原則は、数年間私の頭にこびりつき私をくさらせた。
私だけでなく、この考えの奴隷になっている人は、少なくないのではないだろうか。気持ちは焦っても、理想を実現させることができない。やり方が悪いのか足掻いても光は見えない。自分を救うつもりでも自分を救えない、あるいは救われる希望が見えない。
自分は適者ではない。目に見えない何らかの力によって淘汰された存在なのだ、と思うようになる。そうだとすれば、諦めるしかないのか。諦めの次にあるものは、・・・・・・死か、犯罪か・・・・・・。幸い私の場合は、深い失望感はあったが希望を失うことはなかった。
私が人間の存在理由について疑問を持ったのは、この時より6、7年前のことで、それ以降、頭の片隅にあった疑問だったが、今となって自分としての答えを持つようになって、ダーウィンの進化論に対して強い反感のようなものを持つようになった。当時私は、適者生存の因果関係について、どれほど考えたかわからないからである。
適者生存の原則は、神のみぞ知るというような運命的な要素が強い。適者でない存在は、どうやって活路を開けばいいのか。ダーウィンは、そんなことは微塵も考えなかっただろう。
物質(生物)に備わった選択能力という考え方も、あらかじめ個人が持つ要素は決まっているという部分はあるかもしれない。しかし物質は、その物質自身が思う<1>を選択することが、成功なのである。だから、失敗だと思った時点でやり直せばいいことになる。悲観や諦めは、必要ないのである。
物質の存在は、試行錯誤の繰り返しなのだと思う。言い換えれば、物質(生物)は、試行錯誤することによって、より良い状態を実現していく存在なのである。

 

6 仮説(3)-科学(物理学)の考えに対して-

(1)重力について

まず、この世に存在する全てのものには、原則的に質量があるというのが私の考えである。光子やニュートリノなどは、質量が無いと参考書などに出てくるが、私はこれは、光子やニュートリノなどの質量があまりにも小さいために、計算に手数がかかるので、便宜を図って、0にしていると考えたい。
現代の物理学では、質量の0の物質どころか、マイナスの物質やマイナスのエネルギーの存在も認めているが、実際には、そういう物質は実験室以外ではほとんど存在していない。(物理学の理論には、空孔理論と言う考え方があり、半導体の研究に生かされてきたが。マイナスエネルギーの電子が満たされた状態を真空と考え、その電子が通常の電子となると真空の方に穴ができ、この穴は粒子として振る舞うので、陽電子と呼ばれる。このような柔軟な考え方が、実用的に生かされてきたことは認めるべきことだと思うけれども。)
だから、物質には原則的に質量があるということを念頭において、重力を考えると、一単位の知能を持つことと一単位の質量を持つことが、原始物質のかたちであり、それが、物理学でいう一単位の重力と等しいものだと考える。

一単位<重力>=一単位<知能>=一単位<質量>

《重力が引力となる》とは、<1>知能を持つ物質が、他の物質を選択する行為(引き寄せたり、近付いたりする)である。他者を選択し巨大化すると、ますます選択する力(引き寄せる力)も強くなる。
現在、力には重力を始めとする4種類があり、別々のものだと考えられているが、本質的には<1>知能を持つ物質が、他の物質を選択する行為の結果起こる現象として、基本的には、物質の同じ性質によるものである。
しかし、作用として違いがあるのは、それらがもはや単純な原始物質の状態ではなく、物質が結合を重ねた結果、物質の知能が複雑であるために起こる違いであると考える。

(2)時間について

宇宙に存在する全てのものが、原則的に質量を持ち、<1>選択を行うという性質を持っているとすると、宇宙の成長は、0(無)からではなく、限りなく小さい原始物質群から始まっている。(宇宙がどうやって0から1になったのかは、わからない。)
すなわち、物質が物質を選択していくことが、時間をつくっている。そこには、マイナス時間は存在しない。時間は、刻々と加算されていくだけである。
そして、同じ時間は、二度と繰り返されない。なぜなら、数えきれない物質の選択の組み合わせは、何百兆、何千兆、何京、何垓・・・・・・・・・もあり、また確率は、その逆数分ある。しかも、止まらずに進行している。
だから、あるのは現時点だけである。通り過ぎた時間は、もう存在しない。過去は、私たちの記憶(物体)の中に刻まれたものだけである。過去を取り戻そうとしても、宇宙全体の物質の組み合わせを、最初から一つの狂いもなく再現することは、不可能だろう。そのため、時を超えて旅行するというようなこともできないだろう。過去はもちろん未来という時間も、まだ存在していないのである。
物質の<1>選択の速度は、それぞれの環境や物質によって異なる。だから、私たちの感じる時間は、相対的なものなのである。
相対的であるが規則性を感じるのは、宇宙の始まりの原始物質は、その個性が最初に固定されたものであるためだと思う。

(3)双子のパラドックスについて

アインシュタインの特殊相対性理論では、運動する物体の時間の進み方が遅くなる。また、一般相対性理論では、加速度運動する物体の時間も、遅くなるとされている。
ロケットで宇宙旅行に出掛けた双子の兄と地球に残った弟では、どちらが多く歳をとるか?という問題である。
兄は運動するロケットに乗っていたのであまり歳をとらず、地球へ帰って来た時、浦島太郎のようになってしまう。しかし、運動は相対的であるから、ロケットの兄が静止していて、地球の弟が動いていたと考えることもできる。すると、弟の方が歳をとらないということになり、ここに矛盾が生じる。これを双子のパラドックス(矛盾)という。実際は、兄の方が歳をとらない。

私の考えで、双子のパラドックスを考えてみたい。やはり、高速度で運動する兄の方が歳をとらないと思う。なぜなら、私の考える原始物質の形は、電磁波を出しているプラス(+)の電荷を持つ陽子と同じようなものだからである。
もし、相互作用しようとする二つの(原始)物質に外から一方向に力が加わると、二つの物質は、自分の意志に関係なく、相手を選択することができない。
食物を吸収するなどの身体の機能のつながりが、全て物質の<1>選択能力に依存していると思うので、ある一定以上の早い運動が身体に加えられると、どのくらいの速さで仮死状態になるかはわからないが、身体の機能は停止、あるいは低下すると考えられる。
地球にいる弟にも、地球の自転運動、引力、軌道運動などの力が加わっているが、ロケットで高速度運動する兄に比べればその影響は小さい。
だから兄の方がゆっくり歳をとるのだ。
素粒子実験では実際に、運動する物体の寿命が延びることが観測されている。

(4)物質の不確定要素について

量子力学には、不確定性原理がある。電子などの素粒子を観測するのに限界があり、存在の状態を確定できないためである。
存在の状態を確定できない原因は二つに絞られる。一つは、観察器具(機器)の能力の限界と、もう一つは、存在自体が予測不可能な行動を起こす場合である。後者が原因であるかどうかは、現代の科学的立場からいろいろな意見もあるし、検証する方法も無いとされている。
けれども、仮説(1)(2)が正しいとするなら、不確定要素とは、観察器具の能力の限界とともに、それぞれの物質がもとから持っている、選択行動能力の違いに関係があるものだということができるのではないだろうか。
基本物質(原始物質)の段階から、僅差であっても違いを含むということが、あらゆる事象の不確定要素の原因となっている。その違いによって、起こす行動(選択)に違いが生じるのである。
物質の質量が増えるにつれて、不確定部分が無くなったと感じるのは錯覚で、不確定要素が無くなったわけではない。5節の(3)で延べたように、特徴や性質というのは、それを示す範囲で決まるのであって、性質と性質の境には、不確定な部分が存分に存在しているのである。

(5)人類の科学探究について

長い間科学は、解明できないミステリアスな部分を認めながら、それは、科学の力不足に原因があるものとして、謙虚に研究を重ねてきた。科学者にとっては、わからない部分をわからないと答えるより、論理的に説明できないことが事実であるとすることの方が、プライドを傷つけた。論理的に説明できない不思議な現象は、非現実的現象として真実でない、正義でないという考えが、科学の基本的姿勢だからである。
この科学的な考えは、社会にとって重要だった。宗教や哲学に対する科学の奮然たる態度は、人類全てを平等な存在として位置付け、人類の新しい心の拠りどころだった。私たちの多くは、この科学的な考えを、二度と失ってはいけないという危機感すら持っている。
人類の歩んできた歴史の中で、宗教の地位は高かった。現在でもそれは、揺るぎない無視できない勢力として泰然としている。宗教の存在の威光や影響は、科学とは違うかたちで世の中に根付いているのである。
科学者は、地動説以来、宗教との付き合いが長いので、いつも宗教に対する心遣いを忘れない。コペルニクスは、命と引き替えに太陽中心説を発表したのである。ガリレオは、宗教裁判にかけられ地動説支持撤回を余儀なくされた。
だから科学の一つの重要な目的は、宗教や哲学が求める答えを科学的に納得のいく方法で導き出すことである。そこには、どうしても論理的な方法で至らなければならない。それは、宗教家を始め世の中の全ての人に、より正しい理解をしてもらうためである。
こうして現代科学は多くの副産物をつくり、複雑を極めている。そして複雑なあまり、科学の役割を含めた核心を見失っている部分が多分にあるのである。
人々は、科学を学ぶ意味をあまり理解していない。ただ与えられる知識として、記憶にとどめるだけである。これまで科学が求めてきた『真理』について、一人一人が興味を持ち、考えても良いのではないだろうか。多くの人が、その目的を持って追求していく課程で、正しい答えが明確になっていくのではないだろうか。また、多くの人が考えることで、科学が偏った方向に進むことも避けられるかもしれない。
科学は、これから先の未来においても、人類社会を支える重要な指針であると思う。人類が科学を正しく導いてこそ、人類の幸せが約束されるのではないだろうか。

終わりに

人間を始めとする生物(物質)は、最初から自己にとって良い状態(喜びの多い状態)を実現しようとする本能(性質)を持っている。これは、世の中の全てのものが、幸福になるべくして存在するということである。
しかし、生態系から抜け出した人間のエゴが、周りを傷つけてきてしまった。複雑な人間社会、地球環境の中で、自分にとって良い状態を実現するためには、周囲のことも考えなければならない。自分のことだけを考え周りを傷つければ、それは結局自分のところへ返ってくる。
この社会を理想郷にして、皆の幸福を実現するためにはどうすればいいのだろうか。それは、この地球に住む人間一人一人が考え行動することによって、現実のものへと一歩ずつ近付くものだと思う。
しかし、どんなに前向きな気持ちを持っていても、明日からの社会がすぐ楽園のようになることは、まず有り得ない。それでも、そういう社会を目指していくことは、きっと無意味なことではないと思う。今の比較的平和な社会があるのも、人間がそれを目指してきたからに他ならない。
全ての存在から全ての不幸を取り除くということは、不可能なことだろう。新たな幸福観を望み、得られたとしても、新たな不幸観が生まれる可能性は避けられないからである。また、不幸感による強いストレスでもなければ、本当の意味で、被っているストレスから逃れようとする工夫は、なかなか生まれるものではないだろう。社会は、幸、不幸を繰り返しながら進歩していくものなのかもしれない。
現代社会は、不幸なのか、幸福なのか、その中間なのか、この中途半端な豊かさが、現代の多くの人間に不満や不安感を与えているようである。一度手に入れた豊かさが無くなったり、他の幸福を眺めるだけというのも不幸なことなのかもしれない。
人類を救えるのは、人類しかいない。私たちには恵まれた英知があるのだから、それを十分生かして、人類の本当の幸福を手に入れたいものである。そして、人類の歴史が長く展開され、繁栄し続けることを信じ願ってやまない。子供たちのためにも、またその子供たちのためにも。

≪人物参考≫ <年代順>
エンペドクレス(493~432B.C)古代ギリシャの哲学者
デモクリトス(460~370B.C)   〃   の哲学者、レウキッポスの弟子
アリストテレス(384~322B.C)  〃   の大哲学者、プラトンの弟子
コペルニクス(1473~1543)ポーランドの天文学者、ドイツ人、僧侶
ガリレイ(1564~1642)イタリアの天文学者、物理学者、教授、宮廷付き研究者
トリチェリ(1608~1647) 〃 の物理学者、ガリレイの晩年の助手、教授など
ホイヘンス(1629~1695)オランダの天文学者、物理学者
フック(1635~1701)イギリスの物理学者、天文学者、数学者、生物学者、教授
ニュートン(1642~1727)〃 の数学者、物理学者、天文学者、教授、議員、会長
ビュッフォン(1707~1788)フランスの博物学者、哲学者、王立植物園園長など
エラスムス・ダーウィン(1731~1802)イギリスの博物学者、医師、詩人
ラマルク(1744~1829)フランスの博物学者、軍人、商社員、教授
ヤング(1773~1829)イギリスの物理学者、考古学者、医師、教授、官吏など
ブラウン(1773~1858) 〃 の植物学者、医師、教授、研究所所長
フレネル(1788~1827)フランスの物理学者、土木省技師、灯台監督官
ファラデー(1791~1867)イギリスの物理学者、化学者、教授、実験所所長など
チャールズ・ダーウィン(1809~1882)イギリスの生物学者
フーコー(1819~1868)フランスの物理学者、フィゾーの助手、技師
フィゾー(1819~1896) 〃  の物理学者
バルマー(1825~1898)スイスの物理学者、数学者、教師、大学講師
ストーニー(1826~1911)イギリスの物理学者、教授
マクスウェル(1831~1879) 〃 の物理学者、教授、研究所所長
ノーベル(1833~1896)スウェーデンの工業化学技術者、会社創設、油田開発
モーレー(1838~1923)アメリカの化学者、物理学者、実験家、教授
フィッジフェラルド(1851~1901)イギリスの物理学者、教授
マイケルソン(1852~1931)ポーランド出身、実験物理学者、軍人、教授、所長
ローレンツ(1853~1928)オランダの理論物理学者、教授、科学協会会長など
トムソン(1856~1940)イギリスの原子物理学者、教授、研究所所長、学長など
プランク(1858~1947)ドイツの物理学者、教授、研究所所長、協会会長など
ピエールキュリー(1859~1906)フランスの物理学者、化学者、教授
ミンコフスキー(1864~1909)ロシア生まれ、ドイツの数学者、教授
ゼーマン(1865~1943)オランダの物理学者、ローレンツの学生、教授
ウィルバー・ライト(1867~1912)アメリカの発明家、飛行機製作会社設立
マリー・キュリー(1867~1934)ポーランド出身、物理学、化学者、教授、所長
ミリカン(1868~1953)アメリカの物理学者、教授、研究所所長
ペラン(1870~1942)フランスの物理学者、人民戦線内閣科学研究所長官、所長
ラザフォード(1871~1937)イギリスの実験物理学者、教授、研究所所長
オーバル・ライト(1871~1948)アメリカの発明家、ライト兄弟、会社設立
アインシュタイン(1879~1955)ドイツ生まれ、アメリカの理論物理学者
ハーン(1879~1968)ドイツの物理学者、化学者、研究所所長
ガイガー(1882~1945)〃 の物理学者、ラザフォードの助手、教授、所長
フランク(1882~1964)〃 生まれ、アメリカの物理学者、軍人、教授
ボーア(1885~1962)デンマークの原子物理学者、教授、研究所所長など
シュレーディンガー(1887~1961)オーストリアの理論物理学者、教授、所長
ヘルツ(1887~1970)ドイツの物理学者、技師、教授、研究所所長など
チャドウィック(1891~1974)イギリスの原子物理学者、教授、大学学長
ルイ・ド・ブローイ(1892~1987)フランスの理論物理学者、軍人、教授、理事
イレーヌ・ジョリオ・キュリー(1897~1956)フランスの物理学者、教授、所長
フレデリック・ジョリオ・キュリー(1900~1956)〃 の物理学者、教授、所長
ウーレンベック(1900~1988)オランダ生まれ、アメリカの物理学者、教授
ハイゼンベルグ(1901~1976)ドイツの理論物理学者、教授、研究所所長など
ハウトスミット(1902~1976)オランダ生まれ、アメリカの物理学者、教授
ディラック(1902~1984)イギリスの理論物理学者、教授など
シュトラスマン(1902~)ドイツの放射能化学者、ハーンの助手、教授
アンダーソン(1905~1991)アメリカの物理学者、ミリカンの助手、名誉教授
マクミラン(1907~1991) 〃   の物理学者、名誉教授、研究所所長
シーボーグ(1912~) 〃   の化学者、教授、大学学長、米国原子力委員長
エーベルソン(1913~) 〃  の物理学者、化学者、編集者
ファインマン(1918~1988) 〃 の理論物理学者、教授
ゲル・マン(1929~) 〃 の理論物理学者、教授など
ガガーリン(1934~1968)ソ連の宇宙飛行士

≪主な参考文献≫
量子と実在        ニック・ハーバート著、はやし・はじめ訳(白揚社)
クォーク         H・フリッチ著、山田作衛訳(みすず書房)
ホーキング、宇宙を語る  S・W・ホーキング著、林一訳(早川書房)
素粒子物理に未来はあるか S・L・グラショウ著、本間三郎訳(丸善)
アインシュタインの世界  平井正則監修、三品隆司+HETERO編(PHP)
原子スペクトルと原子構造 堀健夫訳(丸善)
光の量子論        小島忠宜、小島和子共著(内田老鶴圃)
生命進化40億年の風景  中村運著(化学同人)
化学と発見の年表     アイザック・アシモフ著、小山慶太・輪湖博共訳(丸善)
理科年表         国立天文台編(丸善)
相対性理論の考え方    砂川重信著(岩波書店)
力学の考え方       砂川重信著(岩波書店)
相対性理論のききどころ  和田純夫著(岩波書店)
物理入門コース
1 力学       戸田盛和著(岩波書店)
3 電磁気学Ⅰ    長岡洋介著(岩波書店)
4 電磁気学Ⅱ    長岡洋介著(岩波書店)
5 量子力学Ⅰ    中島貞夫著(岩波書店)
6 量子力学Ⅱ    中島貞夫著(岩波書店)
9 相対性理論    中野薫夫著(岩波書店)
現代世界百科事典     (講談社)
万有百科事典       (小学館)
Newton       竹内均編集

未来社会をつくる異色の論理
1997年9月5日 第1刷
発行 株式会社日本図書刊行会
発売 株式会社近代文芸社
印刷 信海書籍印刷株式会社
製本 小泉製本書
*自費出版です

R6.8.21
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