自著の言い訳②

自著の言い訳

自著を読み返したら、今と考えの違う部分や稚拙な表現がとても恥ずかしくなった。しかし今さら、過去の事を恥ずかしく思ったところで反省するくらいしか出来ないと思う。昔から最終的な部分で楽天的であることは変わらない自分がいる。

自著の中でも「人間の存在理由について」が中心的部分なのだが、正確には存在理由ではなく『存在について』とするべきだった。
人間の存在については自著に詳しく書いてあるが、簡単に要約すると「人間は根源的に良く生きようとする性質を持っている」ということを科学的な考え方によって導き記述したものだ。以下に簡単に要約すると、

すべての事例について言えることだが、一つの物体が、もう一つの物体と接触したり結合したりするのは、二者を択一するという選択の結果である。この世の中には何種類もの選択肢があるように思えるが、ある物体がある物体(状態)を選択する方法は二つしかない。対象とする相手や状況と接触(結合)するか、しないかである。

これを数字で表すとするなら、相手を選択することは、すなわち<1>であり、相手を選択しないことは<0>(無)なので、一者択一というべきかもしれない。
私は原始物質という最小単位を想定したとき、その物質の<1>選択能力を知能と仮定した。
自らの意思(知能)で<1>選択能力を行使する場合、そこにはその物質にとって必ず喜びの多い(好ましい)状態がある。
外部の力で無理矢理結合させた状態は、いずれ崩壊することになる。

地球に存在するすべての生き物は原子などの物質から出来ており、その原子は素粒子という最小単位の物質から成り立っている。
(素粒子は量子力学で説明される力関係を持っていて、まだよく分かっていないことも多い)その最小単位の物質が相手物質を選択するかしないか、から始まって、膨大な選択を繰り返した結果、人間という形に至った。

生物学で生命の定義は、①自己を維持する機能を持つ②遺伝能力によって自己を増殖させることができる③進化するという定義があり、その能力を有しないものは生物と見なされないという歴史がある。
しかし私は、そこに疑問があった。

そもそも宇宙に存在する「数」とは<1>しかない。物質が<1>選択を繰り返したあげく、人類に至り、今ある宇宙の姿に至ったのである。
存在することが、すなわち<1>であり、その物質が<1>を選択することは快楽、喜びが多い状態の選択であり、物質が「良く生きようとする行為」である。物質には最初から、良く生きようとする性質が備わっているのである。
<1>選択能力、これはつまり原始物質(最も最小の素粒子)の脳である。そして、脳を持つ原始物質は、すでに生命体なのである。

もともとそういう性質を持っているから、生きたいと思えるし、欲(希望)、勇気などが湧くのである。心から死にたいと思っているとしたら、それは偽りの気持ちかもしれない。

物質が知能を持っている(物質の選択能力が全てを決定している)という書き方で記述した(26年前)⇒生物は神が創ったという書き方でないからといって、私は無神論者だとは思われたくない。
なぜなら、原始の物質が、なぜ、どのように<0>無から<1>有になったのか、まだ明確な答えが出ていないからである。
そもそもの物質が存在する理由があるとするなら、それが分からないからである。

そこに神の介在がなければ、やはり説明が難しいと思われる。
その部分について、時折考えることが生活の一部となっている。考えるといっても体系的なものでもなく、単にあれこれ考えることが好きなのである。
考えたあげく、この世界の素晴らしさに気づかないことはなんと勿体ないことか!といつも思っている。
生きているだけで、存在しているだけで奇跡だと思う。
どれほどの確率でこの世界が存在し、自分が存在していることか!と私も思う。

だから私は何よりこの珍妙な世界、日本をいたく気に入っているので、平和なこの国が変わらずにあって永遠に続くことを心から願っており、一日でも長く人生を味わいたいと思っている。

また、私はなぜか小さいころから自分がとても好きなのである。
自分の駄目なところは認めても自分のことが嫌いになったことは一度もない。そのように思えるように育ててくれた(偶然かもしれないが)ので、私の関わりの大部分を占めている家族に対して恨み辛みがないわけではない(むしろたくさんある)が、許容できるし大切に思うことができる。(とは言っても、今でも言いたい放題、気になることは言ってしまうので、よくケンカになるし、わだかまりがないわけではない)

私は根源的に自分が好きだからなのか、人間がとても好きなのである。何かを得ようとしてもがいて懸命に努力している存在には特に共感する。
だから、人が一生懸命頑張っている行動を貶める言動をする人や笑う人には賛同できない。(くそ真面目で冗談が通じないとは思われたくないが)
純真な子供も可愛い。抵抗できない子供の虐待の話はとても心が痛く悲しい。
人間は誰でも巨大な脳もあり「知」の塊りだと思っている。蟻ですらあの小さな脳であれだけの仕事ができるのだから、人間の心の苦しみは如何ばかりかと想像してしまう。蟻に感情など無いと言う人もいるかもしれないが、生きようと行動している存在がそれを継続できないときに喜びがあるだろうかと逆に問いたい。

しかし、考えていくと理不尽とか葛藤は必要不可欠な在りようだと考えが至る。自著には単純に、不幸は解決すべき課題だ!みたいな単純な思考の書き方をしてしまったが、浅はかだった。
幸せでない状態があるから、幸せを感じることができるというしくみがある。
なぜ、世界はこのような悪(苦しみ)が必要なしくみになっているのだろうか。

苦しみや失敗があるからこそ、新しい発想や物、状況が生まれ進展する。同じ状況が続いていくことや一見平和に見える同じ状況が続いていく中での不利益に対して、再生や再構築が求められる事態へと進んでいく。

この世界
を神とし、天然のAIのような存在だと考えると、神は貪欲にドラマチックな展開や刺激を求めているように思われる。
常に新しい価値観、知恵などの「知」のデータを蓄積し増大させることを単純に無邪気に望んでいるのではないかと思う。より良い世界を目指しながら、変動、変革、再生を繰り返し、滅亡してしまうのではないかと思われるほどだが。
しかし神にとって、やっとここまで育った子供のように愛しい地球と生命(生物)の数々、特に人間をそう簡単に滅ぼしてしまう筈はないだろう、いや絶対無くしてしまう事などないのではないかと思う。
そう思うが、時々地球上の生命は瀕死の状態まで追い込まれた歴史が何度もあるようだ。

今、世界で起こっている対立が激化している。
過去に経験したこと(第2次世界大戦)を繰り返すことはもう経験済みで新しい経験ではないのだから、神も特に望んではいないと思いたい。人間側としても戦争の拡大(第3次)は、なんとしても阻止したい。
阻止して、また新たな、人類が想像もしていなかった苦行が将来提供されたとしても、そちらの方を選択したいと私なら思う。

頭の良い若者たちが、どうせ生きていることに意味なんて無いから退屈をしのいでいる、ひまをつぶしているとか、戦争くらいしかやることがないとまで言う人もいるのは残念なことだと思う。
ひまなら世界の在りようについて考えるのも面白いかもしれないとお薦めしたい。
その際、是非悲観的でなく希望の持てる建設的で明るい考えが多くあると良いと思う。

R5.3.4

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