自著の言い訳①

自著の言い訳

私は1997年の9月に自費出版の本を1冊作った。30歳の終わり頃、急に本を書こうと思い立って完成まで2年半程かかった。

その著述で自分の言いたい核心部分については自分として自信があったのだが、本全体としては課題がたくさんあった。
いつか書き直そうと思ってはいたのだが、既に26年が過ぎてしまった。

その当時その自著を書こうと思い立った理由は、本を書く前までの自分の気持ちを整理し過去のわだかまりを無くすためだったのだが、本の完成後、新たなわだかまりが発生し、この本に関することを気持ちの倉庫のようなところに再びしまい込むこととなってしまった。

当初、本の題名は「人間の存在理由について」だった。
私は最後までこの題名にしたかったのだが、反対されて変えてしまった。

私はその自著で、人間の存在理由についての考察(仮説)について書きたかった。そして書いた後、自分が書いたことを形として残す方法として自費出版を選んだ。
というのも他にどうすれば形として残すことができるのか分からなかったからだ。
当時の私は、近代文芸社の「完成した本は国立国会図書館に収める」という謳い文句に惹かれたのだ。

本として出すにはページ数がほしいのではないかと勝手に考えたのか、経済社会のことなどを書き足した。そのため題名が「人間の存在理由について」では本全体のつじつまが合わないということで反対されたのかもしれない。
経済社会に対する考えも自分としては本気の内容だったが、説明のくどい部分も多い。

(今となっては科学の内容においても社会経済の内容においても自著に書いてある自分の意見について、考えの違う部分も出てきている)

文章がしつこくなっているのには理由がある。自分の文章力が未熟であることはもちろんなのだが、本の内容が分からない、意味が分からない、理解できないと何度も繰り返し言われ書き直したからである。
説明しようとしているうちにしつこくくどい文章になったというのもある。
元の原稿は1996年の11月に書き終わっていたのだが、その後の校正で10ヶ月くらい要している。

何より本を作るにあたって、そのとき貯金を持っていなかったのが良くなかった。
30歳も過ぎているというのに自分だけの判断で完結することが出来ず、良くも悪くも第3者の判断が加わった。

私はサラリーマンの家庭で育ったのでお金持ちではないのだが、高度成長時代に育ち景気が良かったので物心がついた頃から社会が豊かで明るいという印象を強く持っていた。自身の人生の成り行きとは裏腹に。

20歳で就職した時もバブル時代だったので、給料でそこそこ貯金もできて貧乏というわけではなかった。ただ23歳の時、お気に入りの新車を買った後、その3年後に不本意にもかかわらず再び新車に買い換えるということがあったり、その後も自分の欲のためにお金を使うことがあって、自費出版に必要なお金が確か160万円だったと思うが、それを持っていなかった。

それに、30歳のとき本を書くことを思いつくとも思っていなかったし、お金がかかるなんて想像もしていなかった。
というわけで、本を作るには両親からお金を借りるしかなかったのだ。

私には両親と4学年上の兄が一人おり4人家族で育った。転勤族だったので、祖父母との関わりは無いわけではなかったが少なかった。なので私の人間性の大部分は、良い面も悪い面もこの家庭のもとで作られた。

私は小さい頃から読書家ではなかったので、過去の偉人で特別に尊敬する人物はいなかったし、人生において、この人に強く影響を受けたと実感する生身の人物も存在しない。なので、しいて挙げるとするならやはり良くも悪くも家族が8~9割くらい私の人間形成に関わっている。父、母、兄の存在と関わりが、それぞれ同じくらいの割合で私に影響を与えている。残りの部分は、学校などの環境で関わった人たちから得た経験などだと思う。

若い頃の私の人生が自分の希望通りに進まなかったのも家族の要因が絡んでいる。若い頃の私は、自分の人生についてどれだけ思い悩んだか分からない。しかし、家族の立場に立ってみると、彼らも同じように自分の人生が希望通りに進んだわけではなかっただろうと推察された。高校生のころの私は勉強に身か入らず家に帰ると、そんなことをひたすら考えていたような気がする。

特定の誰かが悪いのではないとすると、一体何が原因なのかと。
それが、あの著述につながる元となっている。
人間の存在理由は何なのか。
この世界のしくみはどうなっているのか。

この世界のしくみがどうなっているのか。ということについては、まだ考えがまとまっていない。
というわけで、このことを考え、自分なりの答えを出すことが私の人生のライフワークとなっている。私は私なりにこのライフワークをささやかに楽しんでいる。

自著については不本意な部分や説明の苦しい部分も多く、なんと表現したらよいのか、読んでほしいけど読んでほしくない、しつこく説明や重複している部分、考えが変わった部分などはできれば訂正したいくらいである。

そんな気持ちがあり、完成してから最近まで一度もページをめくることなく封印してあった。
とは言うもののどんどん歳を取るし、思い切ってブログを始めたのもこの自著をなんとかしたいという気持ちも含んでいたので、最近やっと思い切ってページを開いてみた。

ちなみに人間の存在理由について「人間は何のために存在するのか?」という素朴な疑問を持ったのは中学生や高校生の頃ではなく10歳の頃だった。その疑問を持ったのは、何か事件があったからではなく、ふと頭に浮かんだ子供ならではの疑問だった。

その当時、母親にその疑問を投げかけたことがあるが、「私はそんなことは考えたこともないわ!分からないわ~」というのが答えだった。
戦前生まれの私の両親にそんな疑問は全くの想像外のようだった。

父親は私の自著に対して、人がそんな大それたことを口に出してはいけないといったようなニュアンスを私に伝えた。

その考えを察して、宗教に関する様々な歴史が頭をよぎった。人は人間の存在に対する宗教思想で、弾圧されたり殺されてしまった過去がある。父親はそのことを心のどこかで心配しているだと思った。父親はとても心配性なのである。

「しかし昭和の時代も終わって時代は平成なのにそんなことを気にするの?」と強く思ったが、当時の私は精神的なブロックをまたもや破ることが出来なかった。
そのことも私がその本を封印したくなった理由のひとつだった。

精神的なブロックについて書くとまた長くなるが、この不思議なブロックの見えない力は人によって強固なものかもしれない。私の言動や性格から想像する人は、そんなブロックを持っていたなんて想像出来ないかもしれないけれど。

しかし今の私は、単純にブロックをかけたとされる側を安易に非難する立場でもない。
それに多かれ少なかれほとんどの人が抱えている問題だと思う。
この話はまた、違う機会に書きたいと思う。

R5.2.19

 

 

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